イタリア大好き ダンテ アリギエーリ 忍者ブログ
イタリアに関する役立ち情報、おいしいもの等を紹介したいと思います。 リンクはフリーです。
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プロフィール
HN:
Vino Vino
年齢:
18
性別:
非公開
誕生日:
1999/12/31
職業:
イタリアマニア
趣味:
イタリア放浪
自己紹介:
イタリアのワイン好き、食べ物が好き、ファッションが好き、人が好きのイタリア狂です。(笑)
そんな私の気になるイタリアを紹介していきたいと思います。
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神曲〈3〉天国篇神曲〈3〉天国篇
ダンテ アリギエーリ
集英社 刊
発売日 2003-01




二人のダンテ 2004-12-10
 気付くと、ベアトリーチェに導かれたダンテは、天に引き上げられつつある。ダンテの時代は、神が星々をして地球の周囲をめぐらす時代である。地動説が常識の現代の読者として、彼らの前提に慣れるのが最も厳しい。が、そこは古今ほうきに乗って空を飛べる童心に返り、ダンテたちに付いて、星々を巡りながら至高天を目指す。 そこでダンテは様々な聖者、君子らの霊と対話する。中でもトマス・アクィナスが語るエキセントリックで愛情溢れる清貧の実践者=アッシジの聖フランチェスコと弟子たちの話は印象的である。
 また、ダンテは多岐にわたる疑問を抱き、時に明確な回答を得、時に人知の及ぶところではないと諭される。例えば、彼の高祖父にあたる人物に、己の身の処し方を訊く17歌で、高祖父はダンテが味わう惨苦を予言しつつも、詩人として臆することなく大胆に表現せよと答える。一方、32歌で聖ベルナルドゥスは、選ばれた者たちが至高天に占める座の高下を訊ねられ、それは神の予定の玄義に属すると諭す。この他にもダンテは、自分が重力に反して昇天する理由や、異教徒が神の恩寵に与る可能性など興味深い疑問を呈するが、それは、ダンテ自身も疑問に思ったことなのか、あるいは17歌の高祖父の激励のように、予め答えを書くために用意した修辞的なものなのかは分からない。 近代の先駆者とされるダンテは信仰を第一に謳い上げつつも、故郷フィレンツェを忘れることはできない。これまで、声高に怒りの形で表現されてきた故郷への愛が、ささやかに望郷の念として現れる25歌は、それが終生報われなかったことが知られているだけに、胸を締め付けられる。
 至高天でついに神の姿を見たダンテは、言葉に窮する。しかし、彼の願いの成満と共に、絶対的な充足感が得られる。

天国を巡る旅 2003-06-13
詩人の代名詞ともなっているダンテによる長編小説の完結編。生きたまま地獄・煉獄を巡ってきたダンテ本人が本書でついに天国へと到達します。3篇の内では最も宗教的色彩が強く、表現も抽象化されている部分が多く、現代日本人には難解です。とはいえ、高校の世界史の教科書にさえ紹介されている史上屈指の名著です。一度は読んでおいて損はないと思います。


さらに詳しい情報はコチラ≫


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神曲〈3〉天国篇神曲〈3〉天国篇
ダンテ アリギエーリ
集英社 刊
発売日 2003-01




二人のダンテ 2004-12-10
 気付くと、ベアトリーチェに導かれたダンテは、天に引き上げられつつある。ダンテの時代は、神が星々をして地球の周囲をめぐらす時代である。地動説が常識の現代の読者として、彼らの前提に慣れるのが最も厳しい。が、そこは古今ほうきに乗って空を飛べる童心に返り、ダンテたちに付いて、星々を巡りながら至高天を目指す。 そこでダンテは様々な聖者、君子らの霊と対話する。中でもトマス・アクィナスが語るエキセントリックで愛情溢れる清貧の実践者=アッシジの聖フランチェスコと弟子たちの話は印象的である。
 また、ダンテは多岐にわたる疑問を抱き、時に明確な回答を得、時に人知の及ぶところではないと諭される。例えば、彼の高祖父にあたる人物に、己の身の処し方を訊く17歌で、高祖父はダンテが味わう惨苦を予言しつつも、詩人として臆することなく大胆に表現せよと答える。一方、32歌で聖ベルナルドゥスは、選ばれた者たちが至高天に占める座の高下を訊ねられ、それは神の予定の玄義に属すると諭す。この他にもダンテは、自分が重力に反して昇天する理由や、異教徒が神の恩寵に与る可能性など興味深い疑問を呈するが、それは、ダンテ自身も疑問に思ったことなのか、あるいは17歌の高祖父の激励のように、予め答えを書くために用意した修辞的なものなのかは分からない。 近代の先駆者とされるダンテは信仰を第一に謳い上げつつも、故郷フィレンツェを忘れることはできない。これまで、声高に怒りの形で表現されてきた故郷への愛が、ささやかに望郷の念として現れる25歌は、それが終生報われなかったことが知られているだけに、胸を締め付けられる。
 至高天でついに神の姿を見たダンテは、言葉に窮する。しかし、彼の願いの成満と共に、絶対的な充足感が得られる。

天国を巡る旅 2003-06-13
詩人の代名詞ともなっているダンテによる長編小説の完結編。生きたまま地獄・煉獄を巡ってきたダンテ本人が本書でついに天国へと到達します。3篇の内では最も宗教的色彩が強く、表現も抽象化されている部分が多く、現代日本人には難解です。とはいえ、高校の世界史の教科書にさえ紹介されている史上屈指の名著です。一度は読んでおいて損はないと思います。


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神曲〈2〉煉獄篇神曲〈2〉煉獄篇
ダンテ アリギエーリ
集英社 刊
発売日 2003-01




謙遜とは何か 2004-11-13
 地獄とは打って変わって、煉獄の旅の幕開きはのどかである。山裾では窪地に花が咲き、生前、敵対した者同士が共に息子の不肖を嘆き、歌を唱和する光景も見られる。 が、ペテロの門に至るや状況は一転、浄罪の行が始まる。まずは高慢の罪。生前、人を凌ぐことに執心した画家が、重荷を負いながら名声の虚しさを語る。ダンテ自身、学問と教養を誇って庶民の心に入らなかったことで身に覚えがあるようだ。浄罪の行はこれを始めとして7段階あるが、そのすべてを他人事で済ませられる読者は少ないだろう。畏怖の念にかられ、姿勢を正され、謙遜について深く考えさせられる。 山頂に着き、これまで絶大な信頼感を抱いてきたウェルギリウスが、含蓄のある言葉を贈ってまもなく、姿を消したことに気付いた時には、ダンテならずともじわっとくるだろう。そこで、間髪おかずベアトリーチェに一喝され、過去数年の怠惰を弾劾されるのは、師との別れの辛さを忘れるにも丁度よい。 聖書やダンテ以前の西洋古典に親しんでいれば、『神曲』になじみやすいことは言うまでもない。が、そうでなくても、本文と脚註を結び付けつつ展開を把握するには強い集中を要するため、雑念が掃われさっぱりする。つまり、読者にとっての導師、寿岳文章の註さえ丁寧に読めば、キリスト者でなくても本書は味わえる。

信仰と愛の記念碑 2003-06-13
史上最も有名な詩人の一人ダンテによる長編小説。生身のまま死後の世界を巡るというストーリーで当時の人々の宗教観・倫理観・宇宙観などがうかがわれます。本書「煉獄篇」はダンテにとって永遠の恋人であったベトリーチェの登場が圧巻。ただし、読み解くためには欧州の古い習慣やキリスト教に関する知識が必要で、現代日本人にはちょっと難しいという印象を受けるかもしれません。

永遠の神曲/ウイリアム・ブレイクの挿絵 2003-05-28
フリー・メイソンの書物を読んでいてウイリアム・ブレイクの作品を知りました。この哲学者の創造する絵画の世界は、常に独自の思想がキャンバスに落とし込まれていますが、この書籍には惜しげもなく彼の作品が挿入されています。学生の頃一度読みかけて挫折した神曲でしたが、その後イタリア史や諸々の知識を方々から得て、再度読んでみようと購入しました。寿岳氏の訳も実に美しく、ブレイクの挿絵の相関解説も非常に興味深い。ダンテが及ぼした思想観、宗教観は、数世紀経った今日でも広範囲に渡り受け継がれているのが実感される、偉大な作品だと思います。たった一つの難点を言えば、ブレイクの挿絵の印刷。ほとんどが鉛筆を使って描きあげられているとはいえ、鉛特有の質感が出せておらず、実際の色!いよりも単調に仕上がっていて、作品の持つ力強さが伝わりにくい事です。それでも一見の価値のある書籍ですので、興味のある方には是非お勧めします。


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神曲〈1〉地獄篇神曲〈1〉地獄篇
ダンテ アリギエーリ
集英社 刊
発売日 2003-01




できれば豪華版で 2005-08-21
私は文庫版ではなく最初に刊行された旧訳・旧仮名の豪華本で読んでいるが、訳文に「見まく欲りする」「時じく」など上代の蒼古たる語彙を散りばめた擬古文調の口語訳といい、独自の神学に基づいたおどろおどろしいウィリアム・ブレイクの挿絵といい、ブレイク神学にダンテ神学を融合させている思いいれたっぷりな挿絵の解説といい、豪華絢爛で素晴らしいの一言に尽きる。各巻冒頭に記されたブレイクによる薔薇、向日葵、百合の詩も、最初に見た時は奇異に感じて戸惑ったが、これ以外にはないと思うようになった。註釈も周到でわかりやすい。『神曲』は様々な神学、神話伝説、科学的知識を詰め込んだ百科全書的書物だけに、天国篇など本文より註釈の方が分量が多いぐらいだが、読ませる。ただ、文庫のサイズでは大幅に魅力を減じるので、できれば文庫版でなく豪華版で読んで欲しい……というのは文庫版レビューとしては不適切なコメントだろうか。

2005-03-21
読めば読むほど味がでる。複数回は必ず読むべし。   たぶん読みにくい本としての印象は強いが日々変わった新鮮さを出す不朽の名作。

35歳の地獄 2004-10-18
 ”勝ち(負け)組”とか”頭のいい(悪い)人の・・・”とか冠する本がベストセラーとなる昨今も、ダンテが政争のため35歳で流浪の身となった700年前でも、人の欲の本質は変わらないらしい。
 『神曲』は難解と敬遠されがちだが、本書は読みやすい大活字の寿岳訳の真下に、西洋古典に縁薄くともまったく不自由を感じない同氏による註付き。
 導者ウェルギリウスは、流浪するダンテの弱さを助ける内なる理性の声と希望だと考えれば、作品が身近に感じられるのでは。個人的には亡霊同士の醜い諍いに足を止めるダンテをウェルギリウスが厳しく叱責する第三十歌。また、死してなお、地上での名声のため名を伏せようとする亡霊が描かれる第32歌。そして、より深い地獄に故郷フィレンツェの”裏切り者”を落とすダンテに特に惹かれる。


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神曲 上   岩波文庫 赤 701-1神曲 上 岩波文庫 赤 701-1
ダンテ /DANTE
岩波書店 刊
発売日 1952-01




古典を楽しませてくれる名訳 2004-12-01
 イタリア・ルネッサンスを代表する名作である。しかし中身は決して堅苦しいばかりではなく、特に「地獄篇」の人間臭さは有名である。ダンテは政敵をみな地獄に落としているのだが、その描き方などは読みどころだろう。「地獄篇」は一般読者にもある程度楽しめる。逆に「天国篇」の馴染みにくさも有名で、正直、これは楽しめないと覚悟しておいたほうが良い。 訳についていうと、上のレビューにある「清新な名訳として定評のある平川訳」は誇大広告ではない。その通りの優れた訳である。すでに「ちょろ」氏が簡にして要を得たカスタマーレヴューを書いておられるので、平川訳、寿岳訳、山川訳の違いには触れない。ここでは世界文学大系に収められている野上素一訳に触れることにする。これは現在入手困難かもしれないが、平川訳と並ぶ現代口語訳である。 結論からいうと、個人的には平川訳のほうが優れていると思う。文章に躍動感があり、日本語の文章として読んで楽しめるものになっている。しかし知り合いには野上訳を評価する者もいる。参考までに、有名な書き出しの部分を並べてみると次の通りである。「人生の道の半ばで
  正道を踏みはずした私が
  目をさましたときは暗い森の中にいた。
 その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
  いかなるものであったか、口にするのも辛い、
  思いかえしただけでもぞっとする、」(平川訳)「私たちの人生行路のなかば頃
 正しい道をふみはずした私は
 一つの暗闇の森のなかにいた。
 ああ、それを話すのはなんとむずかしいことか
 人手が入ったことのないひどく荒れた森のさまは
 思いだすだに恐怖が胸に蘇ってくるようだ。」(野上訳) 平川訳を「文学的」な訳とするならば、野上訳は「語学的」な訳とでも言えるだろう。どちらを選ぶかは好みによる。

訳者によるニュアンスの違い 2004-11-13
 世界的古典であり、同時にファンタジーの傑作。平川訳は寿岳訳よりさらに平易で、これまで興味はあるが敬遠してきた、あるいは、少しでも文語には抵抗を感じるという人にお薦めしたい。
 参考までに語句では、ウェルギリウスへの呼びかけに、
  「先生、」:平川訳
  「師よ、」:寿岳訳
となる。また、文で比較すれば、
  「白いおもぎぬをかけ、かんらんの冠を戴いた夫人が目の前へ現れた、
   緑のマントの下にはもえたつような朱(あけ)の衣をまとっていた。」:平川訳 (煉獄篇第30歌より)
  「清白(すずしろ)の面紗(めんさ)の上にオリーヴァの冠をつけ、
   やごとなきひとりの淑女が、私の目の前に現れた、緑のうわぎの下に、燃え立つ焔の色の衣(きぬ)召して。」:寿岳訳 (同上)
となる。
 なお、ここで、平川訳により親近感を持った人には、決して山川訳はお薦めしない。

喜曲「神曲」 2003-09-05
 ルネッサンス文学の先駆ダンテの「神曲」は1321年死の直前完成し、原題「LA COMMEDIA」といって「喜曲」を意味する。この題名が「LA DIVINA COMMEDIA」と改められたのは1555年以後のことであり、「DIVINA」の意は「神聖な」である。さて、ダンテ自身によって喜曲と銘打たれたこの作品は果たして喜曲であろうか。ダンテの魂浄化の道、地獄、浄火、天堂の記が神曲であるが、ダンテはこの獄から天に昇り行くさまが喜曲の構成であるとしてこのように題したようである。しかしてその内容は深刻を極め且つどこまでも天上的である。「これは喜曲ではない」これは誰もが認めるところだろう。 神曲の内容は難解(聖書、ホメロスなどは最低読んでからこの作品にかかったほうがよい)であり、賛否両論である。ホメロスよりすばらしいといった人もあれば、ゲーテのように「地獄編はすさまじく、浄火編は曖昧で、天道編は退屈だ」というような見解もある。
 なお、山川丙三郎氏の訳は文語に、大正時代のものだけあって旧字体で書かれている。


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神曲
ダンテ
河出書房新社 刊
発売日 1992-03




古典を楽しませてくれる名訳 2004-12-01
 イタリア・ルネッサンスを代表する名作である。しかし中身は決して堅苦しいばかりではなく、特に「地獄篇」の人間臭さは有名である。ダンテは政敵をみな地獄に落としているのだが、その描き方などは読みどころだろう。「地獄篇」は一般読者にもある程度楽しめる。逆に「天国篇」の馴染みにくさも有名で、正直、これは楽しめないと覚悟しておいたほうが良い。 訳についていうと、上のレビューにある「清新な名訳として定評のある平川訳」は誇大広告ではない。その通りの優れた訳である。すでに「ちょろ」氏が簡にして要を得たカスタマーレヴューを書いておられるので、平川訳、寿岳訳、山川訳の違いには触れない。ここでは世界文学大系に収められている野上素一訳に触れることにする。これは現在入手困難かもしれないが、平川訳と並ぶ現代口語訳である。 結論からいうと、個人的には平川訳のほうが優れていると思う。文章に躍動感があり、日本語の文章として読んで楽しめるものになっている。しかし知り合いには野上訳を評価する者もいる。参考までに、有名な書き出しの部分を並べてみると次の通りである。「人生の道の半ばで
  正道を踏みはずした私が
  目をさましたときは暗い森の中にいた。
 その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
  いかなるものであったか、口にするのも辛い、
  思いかえしただけでもぞっとする、」(平川訳)「私たちの人生行路のなかば頃
 正しい道をふみはずした私は
 一つの暗闇の森のなかにいた。
 ああ、それを話すのはなんとむずかしいことか
 人手が入ったことのないひどく荒れた森のさまは
 思いだすだに恐怖が胸に蘇ってくるようだ。」(野上訳) 平川訳を「文学的」な訳とするならば、野上訳は「語学的」な訳とでも言えるだろう。どちらを選ぶかは好みによる。

訳者によるニュアンスの違い 2004-11-13
 世界的古典であり、同時にファンタジーの傑作。平川訳は寿岳訳よりさらに平易で、これまで興味はあるが敬遠してきた、あるいは、少しでも文語には抵抗を感じるという人にお薦めしたい。
 参考までに語句では、ウェルギリウスへの呼びかけに、
  「先生、」:平川訳
  「師よ、」:寿岳訳
となる。また、文で比較すれば、
  「白いおもぎぬをかけ、かんらんの冠を戴いた夫人が目の前へ現れた、
   緑のマントの下にはもえたつような朱(あけ)の衣をまとっていた。」:平川訳 (煉獄篇第30歌より)
  「清白(すずしろ)の面紗(めんさ)の上にオリーヴァの冠をつけ、
   やごとなきひとりの淑女が、私の目の前に現れた、緑のうわぎの下に、燃え立つ焔の色の衣(きぬ)召して。」:寿岳訳 (同上)
となる。
 なお、ここで、平川訳により親近感を持った人には、決して山川訳はお薦めしない。

喜曲「神曲」 2003-09-05
 ルネッサンス文学の先駆ダンテの「神曲」は1321年死の直前完成し、原題「LA COMMEDIA」といって「喜曲」を意味する。この題名が「LA DIVINA COMMEDIA」と改められたのは1555年以後のことであり、「DIVINA」の意は「神聖な」である。さて、ダンテ自身によって喜曲と銘打たれたこの作品は果たして喜曲であろうか。ダンテの魂浄化の道、地獄、浄火、天堂の記が神曲であるが、ダンテはこの獄から天に昇り行くさまが喜曲の構成であるとしてこのように題したようである。しかしてその内容は深刻を極め且つどこまでも天上的である。「これは喜曲ではない」これは誰もが認めるところだろう。 神曲の内容は難解(聖書、ホメロスなどは最低読んでからこの作品にかかったほうがよい)であり、賛否両論である。ホメロスよりすばらしいといった人もあれば、ゲーテのように「地獄編はすさまじく、浄火編は曖昧で、天道編は退屈だ」というような見解もある。
 なお、山川丙三郎氏の訳は文語に、大正時代のものだけあって旧字体で書かれている。


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